2008年11月16日日曜日

祝 Nヤンキース4連覇 <教育と伝統、あるいは個人と永遠>


「……世界で通用するサッカー選手になるためには、若い時からこの「言語技術」を学ばせることが大切なのではないか、と。…(略)…サッカーとは、論理的に思考することで、別の新しい可能性が開かれてくるスポーツです。
 1本のパスについて考えても、答えはひとつではありません。パスをするたびに、その都度、判断を変えていかなければなりません。全体の状況、相手との関係、自分の力量、得点差など、さまざまなデータをふまえたうえで、自分は何をするのか、という「論理」の流れを、的確につかんでいかなければならないのです。
「論理」に基づいた判断力とひらめきを養っていくためには、論理教育を実践することが大切です。こうした能力は、ピッチの外の場所で学んでいかなければならない、重要な基礎的能力なのだと私は考えました。(『「言語技術」が日本のサッカーを変える』田嶋幸三著 光文社新書)

4連覇で、とあるナイターリーグ優勝を果たした新宿の草野球チーム、ヤンキース。創立24年。人が足りないからと私が呼ばれてからも14年ほどになるだろうか。万年2位を脱却して初優勝したときもうれしかったが、今年はまた格別に記憶に残るシーズンになった。監督は白血病でたおれ、若手とベテランとの喧嘩内紛あり、それでもいがみあい話し合いのなかから、今までにない質の高いチームワークを発揮し、優勝決定戦となる最終試合、3-2とさよなら勝利をおさめたのだった。実力的には、野球経験者が多い他チームのほうが上手なのだが、それでもなぜか負けない。というか、草野球チームを持続しているところは、やはり色々な世代がまざってくるものなので、その時々の引き継ぎ、バトンタッチ(選手入れ替え)がうまくいかず、試合中にも歯車あわず自滅し、勝機を失って負け癖の悪循環にはまっていったのだった。我々はそのいく節かの編成時期を、野球経験のない監督および首脳陣の、ヤンキーな若者たちへの思いやりというか、言いたいことは言え、という方針、生き様によってうまくのりきってきたのだった。

<若手の思い切りの良さと、ベテランのしぶとさ。西武が日本一を引き寄せた8回の逆転劇には、二段構えの攻めがあった。>(朝日新聞夕刊2008/11/10)

上の記者評は、われわれにも当てはまるかもしれない。たしかにジャイアンツの原監督は、若手をうまく育てたようだが、ライオンズの渡辺監督ひきいる首脳陣の下で育ったチームより、生きの良さ、ノリ=底力がないようにみえる。私にはやはり、原監督率いる巨人軍が、なお古い野球観、年上には問答無用との緊張感を選手にあたえているのではないかとおもう。そしてその体質が、試合での戦術にも継承されているのではないか? 日本シリーズで巨人軍のブレーキになったのは、李承燁だが、ペナントレースの後半から見ていて疑問におもったのは、首脳陣がこの強打者にやたらとバントのサインをだしていたことだ。7回ワンアウト、ランナー一・三塁、ストライクのセフティースクイズ、失敗。解説者はまさかサインではないとおもいますが、といっていたが、その後の試合で、ランナー一塁での送りバントのサインを何回もだしていたから、そのときも、一石二鳥をねらってはいるが実際には虻蜂取らず、意図の不明瞭な戦術をしかけたのだろう。日本シリーズ最終戦で、西武が意図明白な気迫で盗塁、バント、打った瞬間にホームへゴーと足を使ってきた逆転劇の戦術とは似て非なる野球。ランナーが一塁にでたら機械的に送りバント、では、守備側も恐くはないだろう。が、それが「勝つ野球だ」、という信念じみた考えが日本にはなお支配的なのである。今年の高校野球でも、たとえば横浜高校はそうだった。まあ、松坂世代とかと比べられてしまう伝統校では、今年のチームは粒が小さいからと、ベテラン監督がやってしまうのかもしれない。が、この「高校野球」の代名詞のような<犠牲バント>、日本の<野球道>を象徴させているようなもの、は、本当に、勝利へのこだわりなのだろうか?

野球とは、ベースボールとは、スポーツである。人はなぜスポーツをするのだろうか? そこに、身体的な快楽があるからだ。ならば野球ではそれはなんだろう? バッティングセンターが商売にもなるように、あのバットでカキーンと打つ快楽こそが本命なのではないだろうか? ならばその快楽を否定する犠牲バントとは、スポーツの否定であり、人間性の否定であるだろう。その作戦は、ボディーブロー的に、じわじわとその人のモチベーションを蝕んでいくにちがいない。そうやって、日本シリーズがはじまったときには、勝負強さで有名な李選手は気力の箍をはずされてしまったのだ、というのが私の考えである。というか、そのバント作戦や、初球から打っていく積極性の問題をめぐって、わがヤンキースでも試合後の飲み会で議論があり、私のスポーツ論は否認されたのだった。ただそれを間に受けたのは私だけで、以後ほかの若手選手は積極性に転じ、モチベーションをくじかれた私はあと一本のヒットが最後まで打てず、首位打者とMVPを逃してしまったのだった。

勝つことに直接的、即効的に役に立たないようにみえても、コミュニケーションをとる、というまわりくどい手続きは、持続的に勝つことには必要な前提条件であると私はおもう。草野球ヤンキースでは支離滅裂な自己主張が多いが、論理的な訓練(独学)をしてきた私が言葉の整理役、新監督からは「テクニカルアドバイザー」を要請されている。上下関係の厳しい典型的な野球部からの落ちこぼれ者も多いから、野球経験者の多い他チームとは違って雰囲気が明るいのだった。よそからは、前科者が集まる犯罪者チームと呼ばれたりもするのだが。しかし問答無用とばかりの、封建的、軍事的な指示系統の直截さ、目先の勝利への執着は、多様な情報や状況の変化といった現場にいあわす個々人の判断力を蝕むから、実践的には無謀な負け戦への習性を植えつけていることにしかならないのだ――ということを、野球バカだった私は、野球を卒業してからの独学で自己否定的に探求していったのである。冒頭で引用した田嶋幸三氏の著作は、日本のサッカー界の首脳陣がそのことに気づき、実践的な試みを制度化しようとしていることを報告している。私もその理念には賛成だ。この日本にあった前提的などうしようもなさに、まったく気づいていないのではないか、と勘ぐらせる相変わらずの野球界のほうが、致命的に遅れているだろう。国技国民スポーツとして偉そうにふんぞりかえっている(た)習性が抜けない限り、その身体化した癖・偏見を自己変革していかないかぎり、本当の強さは身につけようがないだろう。が、いかんせん、多様な文化間で勝負をするサッカーとちがって、世間の狭いベースボールはそれが検証しがたいのだった。が、台湾で選手兼指導者としての経歴もある渡辺監督のような内側からの改革者、人間性を否定しないところでチームを組み立てようとする世代の台頭が、日本の<野球道>をまっとうな道に変えていくにちがいない。もちろん、そのチームワークとは、仲良しクラブとはちがって、議論の上にのった均衡という緊張=バランスにおいて成立するものだから、反復するのは難しい。そして昨夜の納会では驚いたことに、入院先の病床から、前監督はそれを持続的な制度にしようと、キャプテンを通して指示していたのだった。

それは、30番という背番号を、次の監督が引き継いでくれ、ということだった。別段草野球なので、その番号を監督が背負う、とい規定はないので、新監督はいまのヤンキースを育てたのは前監督あってこそだったのだから、それを永久欠番として残したい、そして皆の意見も、その人情を支持したものだった。私も当初、背番号になどこだわる必要もないだろうから、新監督が気持ちを整理できないのなら(死別の話でもあるのだ)、監督だからといって30に、という形式にこだわる必要もないだろう、と考えていた。が、議論をよくきいていると、キャプテンと前監督の考えは、もっと深かったのだ。つまり、今年のようにして、世代ギャップを越えたチームワークで優勝したその実質を、伝統として作っていきたい、ということなのだ。別段その実質さえ継承されていけば背番号はどうでもいいのだが、危うい均衡の上で成立しているチーム内の関係をうまく来年も反復させていくには、30番という自分の背負った背番号を次の監督にも引き継いでもらう、それが一つの大きな方法だ、と思索したのである。いやそれは、野球経験もなく、人から疎んじられてきたような落伍者の男だったからこそ搾り出てきた知恵なのだ。それは人情を切断する厳しい選択を、実は各メンバーに強いるものなのである。個人の生命を超えて、<ヤンキース魂>という精神=実質が永遠であってほしい、そういう遺言なのである。勝つためには野球経験者をそろえて前面にだす、というかつての巨人軍路線のような考えではなく、全員で野球をする楽しさで勝つ、その一見矛盾した困難な実現を世代間という教育過程を通して反復=創造していくために、次の監督もその哲学を引き受けてくれ、俺の30番を背負ってくれ、という願いでもあるのだ。この覚悟=思想を、本当の意味で理解するのは難しい。「テクニカルアドバイザー」の私はそう新監督に解説したけれど、その個人間の情けを越えた言葉の真の意味、つまり真実性という真剣さはまさに前監督への想いゆえに、曇らされ、伝わらなかったことだろう。

されど野球、草野球である。町場のほんの小さな集団にも、教育と伝統、個人と永遠とも言いえる思想的な営みが、いまも繰り広げられているのである。

*ところで、ちなみに、私は高校の野球部にはいったばかりのころ、前橋工業高にいた現西武監督渡辺氏のピッチングを、バットボーイをしながら目の前でみたことがある。そして度肝を抜かれてカルチャーショックを受けたのだった。ちょうどその練習試合、遊撃手の先輩が怪我をして、なんと監督は私に交替を命じたのだった。私の白いユニホームと先輩の高名入りユニホームをおどおどしながら取り替え着替えていたら、「まだ終わってないのか!」と監督の怒鳴り声。で、試合に出れる好機を逃してしまったのだった。あのときさっと着替えて何食わぬ顔をしていれば……しかしあのピンポン球のようになった硬式ボールに、私はバットを当てることさえできなかっただろう。いや打席にはいることさえが、別世界に入っていくことのように思えたことだろう。が、自主トレ中心の軟弱そうに見える進学校の先輩たちは、関東大会に進出しては横浜高校をやぶり、決勝では1-0と破れはしたけれど、その渡辺投手率いる前工に再度挑戦していったのだった。

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