2015年9月2日水曜日

日本少年サッカーにおける文化的現状

「そもそも、日本の文化領域においては、ハイカルチャーだろうとサブカルチャーだろうと、日本に「なる」ことに尽力するよりも、むしろ日本ならざる何かに「変身」することに高い評価が与えられてきた。…(略)…しかも、問題なのは、こうしたモラルも目的もない変身願望がいわゆる「神国」思想と平気で両立することである。日本はしばしば別物になりたがる。しかし、その変身願望の背後には、海に囲まれた日本の同一性が脅かされることは決してないという暗黙の安心感がある。日本が唯一無二であることは厳密に証明するまでもなく、当然の前提として捉えられているから、いくら変身願望を語ってもアイデンティティーの真の危機に見舞われることもない。逆に、この「自然」な唯一無二性に頭までどっぷり浸かってしまえば、むやみに高い自己評価――神国日本――が出現するのも、ある意味で当然のことだろう。したがって、日本以外の何ものかに変身したがることと、日本を無反省のままに唯一無二の神国と考えることは、結局コインの裏表だと言わねばならない。そこに欠けているのは、日本が長年かけて蓄積してきた経験とは何であり、そのストックを現代の課題とどうぶつけていけばよいかを考える、粘り強い「証明」の作業なのである。今日、日本について思考することは、一所懸命に日本に「なる」というアクションを含まねばならない。」(福嶋亮大著『復興文化論 日本的創造の系譜』 青土社)

先月末に、U-12ワールドチャレンジ2015大会が行われ、その準決勝からの試合を、同じ年代の新宿代表の子供たちとみた。準決勝で東京都選抜がバルセロナFCに1-1の末PK戦で勝ち、決勝では、同じくスペインはカタルーニャ地方からきたエスパニョールに0-0のあとPK戦で敗れた。私には、これは東京都選抜を日本育成現状の象徴と考えるなら、バルサに勝ったからといって、とても喜んでいられはしないだろう、というのが第一印象だった。その印象はすぐには言語化されなかったが、トレセン制度から即席的に選んで一週間の仕上げで大会に臨んだ指導者たちも、おそらくそうした危機感をもったのではないか、ということが、大会後の取材記事で想像される。

バルサ以外のチームは、まあ小学生の上手な子たちのチームだな、まだボールコントロールのミスも目立つし、という感じだ。一方バルサだけは、もうプロそのもの、ただそのレギュラーにはなお遠いだけだろう、といった感じだ。1対1での駆引きを含めたボールコントロールのレベルが違う。ミスがほとんどないように見える。これでスピードとパワーがついてチーム戦術的な動きがマスターされたら、とても太刀打ちできず、ボールに触れなくなるんではないか、という恐ろしさ、つまり彼ら子供たちの伸びしろが強く感じられてくるのだ。逆に他のチーム、とくに選抜東京チームは、理屈的にはなおボールコントロールレベルでまだまだなのだから、伸びしろはこちらのほうがあるはずなのに、そういう風な印象を受けない。もうこの子供たちは目いっぱいなんではないか、と心配されてくるのである。東京選抜の子供たちは、本当に必死になって、フィールドを走っていた。しかし、そうした全体的な印象に、躍動していくもの、大人として成長していく落ち着き、子供たち自身には意識できないだろう雰囲気的な何かが、生きていないのである。取材記事によれば、バルサおよび決勝でのPK戦でも、誰一人俺が蹴るといわなかったどころか、失敗を恐れ辞退したり、だったという。おそらく、各自が所属するクラブチームでだったなら、そんなことはなかっただろう。が、こうした重圧下で、彼らの意識を超えて出てきてしまうものがあるのだ。バルサの子たちは、PK戦になったとき、試合途中選手交代をめぐり中断があったのに、ロスタイムが少ないのはおかしいと猛然と主審、審判団へ抗議をはじめた。バルサのコーチは試合後のインタビューでそれを謝罪したが、規則を律儀に推進するよう試合進行する審判団をはじめ、むろん審判に異議など唱えない日本の子供たちとの違い自体は問題ではない。勝ちたいという同じ気持ちが、表にでるか裏に秘められるか、の違いだけだ。そして謙虚なのは、いわば日本文化の地としての表象であり、良さでもあるだろう。が、そうした遠慮、思慮深さ――自分が今感じている重圧ではPKをはずしてしまう可能性があると冷静に自己分析してしまう、ここは代表チームだから俺よりあいつが、あるいは誰が蹴っても、とまわりの空気を読み始めてしまう――、いわば内向的な在り方が、悪い方向で機能していく、させていく世の中の風潮、雰囲気が、各クラブの育成中に、すでにして挿入されてしまっているのだ。(そしておそらく、そうした子を選抜・スカウティングするようになってしまっている。)すべての試合に「負けられない戦いがある」と放映するテレビとうメディアの作る営業方針も、そうした風潮を地固めしているだろう。つまり、技術以前の在り方、いや正確にえば、技術を成立させる私たちの在り方自体が、おかしくなっているのである。
取材記事には、アルゼンチンからのチームのコーチの発言がある。南米、とくにアルゼンチンの選手は、球際で激しく体を入れてとりあう。ボールに足をだすのではなく、まずガツンと体を当ててくるのが習わしだ。が、そんなことは教えてはいないのだ、とコーチは言う。「それがアルゼンチンの文化なんだ」と。バルサの8番、これはこのチームにとって、伝統的にゲームメイクするのに特権的に選ばれた選手がつける背番号だ。今回のチームでは、とても背の小さな、ジャマイカ・レゲエー風の風貌をもった子だった。日本人の感覚では、とてもなぜ彼が中盤の底に選ばれているのかわからない。このわからなさは、こちらがサッカーをよく知らないことからくるだけではなく、バルサが勝ち負けを超えて、こういう持ち味をもった選手をここにおく、というポリシーを一貫させていることからくるだろう。その8番のチャビくん、東京戦で、ファールで勝ち取ったPKを外してしまった。それが、敗因の大きな理由となってしまった。3位決定戦では、ベンチスタートからだった。中盤の底には、6番、シャビではなくイニエスタの背番号をつけた大柄な選手がはいった。一見では、この選手のほうが機能しているようにみえただろう。が後半、チャビくんがはいる。コーチは信頼し、成長させようとしているのだ。試合まえ、ベンチに向かう途中、ずっとチャビくんの肩を抱きながら、優しく何かを語りかけながら歩いていった。その姿は、清水市での草サッカー大会での、生き残った少年団のコーチの指導姿を思い起こさせた。バルサも、いまのポゼッション・スタイルで、はじめから勝てていたわけではなかった。自分たちに何ができるかを検証し、その自覚のもとに子供たちから教え始め、たとえそれで負けても、基本原理・哲学を変えてはこなかったのだ。それが、第一世代的なシャビやイニエスタといった選手で花開いたのである。次には、その育成方に危機感をもったドイツが試みはじめた。それが、その第一世代的なゲッツェで前回のワールドカップを制した。かつては、小学生レベルでは、日本の子供たちは世界に負けていなかった。清水代表も、全勝で遠征から帰って来たのだ。だから問題は、それ以後に開き始める育成制度だと指摘されてきたのだが、そうした問題把握が間違っていることが証明されてしまっているのが昨今だということになる。ワールドチャレンジを戦った西が丘のスタンドには、バルサのスクールに通う子供・父兄ように、特別指定席が設けられていた。東京戦、そんな子供たちが、「バルサ! バルサ!」と応援コールをおくる。もしアルゼンチンからボカ・ジュニアーズのチームが来ていたら、南米コーチのラテンのノリで、踊るような声援や応援歌が聞こえただろうか? しかし、バルサをコールする声援は尻すぼみになる。おそらく子供たちは、東京(日本)相手に戦う自分たちの応援の在り方に、何か奇妙なものを感じ取ったのだろう。日本では、スペインのほかにも、オランダやドイツからのスクールがたくさん営業している。そうした風潮にのっかって、諸外国チームの一員として、日本に対して応援してしまう自分たちの存在のおかしさに、彼らは黙ってしまった、ということになるかもしれない。清水FCの代表チームに選抜されプロになり、ドイツでも活躍し、いまは川崎フロンターレの監督をしている風間氏は、サッカーは「一」を教えられれば、あとは教えなくとも二、三、四と覚えられてゆく(サッカーだけではないが…)、そして最初の「一」とは、技術ではなく、「物事の本質や人間というもの」なのだ、と発言している。スペインで教えられる「一」と、ドイツで教えられる「一」は違うのである。日本の大工や植木屋は、木を切るさい、ノコギリを引いて切るが、欧米では、押して切る。ノコギリの歯自体がそうできてもいる。純粋な技術などないのだ。ボールを奪う際にも、アルゼンチンは体を当てる、教えなくても、そのようにやってしまうようになる。チャビくんが一番評価されている能力は、セカンド・ディフェンダーとしてのカバーリングの予知能力だ。最初にボールを奪いにいったものの後ろにつくポジションニングのすごさ。しかし、ドイツでは1対1を重視するので、基本的にカバーにはいかないのだ。ならば、日本における「一」は? 私たちの原理とはなんだ? そのうち、まさにその「一」に迷ってチャランポラな戦い方をする日本代表チームがでてくるだろう。というか、もう出てき始めている、ということではないか?

私は、スクール的な方向、純粋技術を仮想している現状、その寄せ集め的な、「雑種文化」(加藤周一)をそのまま現状追認していく方向から、良いサッカー、面白いサッカーが出来上がってくるとはおもえない。審判に抗議したり、ファウルまがいのプレーを真剣さの証しとしてとらえて推奨しだす「変身願望」がいいとおもわない。中田英寿やイチローが説くように、謙虚のまま、大人しいままでいい。あんなのはベースボールじゃないと批判されても、イチローはポテンヒットや内安打を技術的に量産しつづけた。こんなのサッカーじゃない、と本場の人たちから言われても続けられる私たちの「一」とはどのようなものだろうか? 縄文時代からでなくとも、日本と総合されてもいい文化的なまとまりの歴史は古い。すでにあるに決まっている。風間氏も、それを当時の清水市の指導者たちに認めたのだ。しかしその在り方は、決して自然(条件、島国だからと)に、自明なものとして発生してきたわけではない。その継承者たちは、世相が風潮に負けて、実際の試合や大会で勝てなくなっても、「語り」つづけている。つまり現状に抗って。敗戦になった戦争を語りつづける生存者のように。あくまで、日本の文化も、いまある自然への抵抗としてだけ反復される。おそらくバルセロナFCも、そうやって自分たちを「復興」してきたのである。

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