2015年3月2日月曜日

宮崎駿『風立ちぬ』を録画鑑賞――日本技術史の反復と転向(引退)


テレビで初放映されたジブリのアニメ映画、『風立ちぬ』を、昨日ようやく録画でみた。息子の一希は、5分でみるのをやめてしまったようだったのだが、それがなぜなのか、自身でみて合点した。とても小学生の子供には難しいだろう、と。中学生くらいならば、そのロマンチックな一主題に感応して見られるかもしれない。そしてネットでちょこっと映画の感想を検索してみるかぎりは、その範疇でのものがほとんどのようである。私が読んだ感想で「なるほどそうだな」と感心させられた推論は、飛行機の実験に失敗した主人公が、軽井沢と思しきホテルでであうカストルプというトーマス・マンの『魔の山』の主人公と同名の男は、「ゾルゲ」だったろう、というものだ。そしてその指摘は、私の感想、この作品はあきらかに、3.11の地震と原発事故に追いやられて構想させられている、という感じを後押しした。主題的に言えば、自然と、それを主体的に制御すべく人間の技術への姿勢、思想的考察や立場への葛藤、ということだ。そしておそらく、作者の宮崎氏は、図らずも、まさに映画中の時代にしてあったこの問題を、3.11によって受動的に、パッシブに動かされることにより、反復してしまった、またそれゆえの自覚により、引退という結論に至ってしまったのではないか? いわば、日本思想史上にみられた科学・技術者の転向という現実を、自身の内的論理として繰り返し犯してしまった、という責め苦?

日本の科学・技術の思想面を担う人物群が、ノーベル賞をとった湯川秀樹の弟子たちで、彼らがマルクス主義、左翼思想に傾倒していった者たちだったという指摘は、たとえば、最近のネット上では、副島隆彦氏の学問道場でも取り上げられている。が、より緻密にその思想史を考察している著作とは、スガ秀実氏の『反原発の思想史』である。
ジブリの『風立ちぬ』に関わるだろう部分を、物語仕立てになるよう引用列記してみる。

=====以下引用(すが秀実著「武谷三男の技術論と新左翼」『反原発の思想史』 筑摩選書)

「一種の科学主義に基盤を置く社会党・共産党はもとより、社共を批判して登場した日本の新左翼の理論にも、原子力の平和利用といったパラダイムをこえられない限界が、当初からあった。それは、初期新左翼の理論が、先行する戦後主体性論/技術論の摂取という問題系から出発したことに規定されている。」

「新左翼の創設にもっとも影響を与えた理論家の一人であり、革マル派の最高指導者となった黒田寛一の、きわめて晦渋な最初期の代表作『ヘーゲルとマルクス』(一九五二年)は、「技術論と史的唯物論・序説」と副題されているとおり、武谷三男の「技術論」と、特異な主体的マルクス主義者として知られる梯明秀の「物質哲学」との「統一的把握」を問題としたものである。」「『ヘーゲルとマルクス』には、「本書を/戦争の犠牲者たちに/そして いま/ふたたび 戦争を 肯んじない人たちに/――捧ぐ」というエピグラフが掲げられ、本文には、武谷三男の戦時下を推察してであろうか、「『戦力増強』のための生産活動や殺人兵器の研究に対する、良心的な技術者や科学者の『苦悩』」についても、言及されている。」

「意識的適用説は、戦時下の武谷が逮捕、取り調べされた時の「特高調書」に記されており、敗戦直後発表された「技術論」では、先に引用したその定義も含め、調書それ自体が引用されている。このことは、戦中後を一貫する武谷の戦時下抵抗の輝かしいあかしとして、戦後の出発を飾った。
 しかし、中村静治が、武谷の批判対象であった戸坂潤や、武谷の協働者であった内田義彦(経済学者)を引用して指摘するように、それは、「戦時下の技術者運動とのつながりにおいて、さらには所与の生産手段の有効利用という『生産工学』的観点から発想されたもの」(『新版技術論争史』)ではなかったか。そこでは、「主体的」に生産力増強にコミットすることが技術の本質であると言われ、そのことは、総力戦体制に適合するものだった。
 武谷の意識的適用説は、その「転向」の完成だったのである。そして、その転向の論理が、そのまま「戦後主体性論」として、無傷のまま流通していった。言うまでもなく、これは、他の戦時下マルクス主義者において、繰り返し起こったことでもあり、近年の研究でも多くの指摘がある。
 すでに公害問題が大きくクローズアップされ、科学者の反原発論も顕在化していた一九七一年、武谷の忠実な後継者・星野芳郎は「戦後日本思想体系」の一冊として『科学技術の思想』(筑摩書房)を編んだ。星野は、その本と同名の巻頭論文で、公害や労災を克服しうるのは「高度の技術」を必要とするが、資本主義はそのことを阻んでいる、反公害闘争や反労災の闘いこそが「技術発展を促進する」と述べていた。つまり、反核・反原発闘争こそが、原子力の平和利用を促進するというわけである。」

=====引用終わり=====

宮崎氏の『風立ちぬ』が、いわゆる左翼思想に共鳴していることは、いわばソルゲと思しき人物の登場と、おそらくは彼との接触により、主人公二郎が特高から追われてしまう、という設定から推察できる。ただそのセッティングだけでは、むろん、その思想へどんな関係をもっているのかまではわからない。が、二郎は技術者であって、戦闘機を作る設計者である。すでに原子爆弾の開発に携わっていた上記引用の武谷氏でさえ、特高に捕まるぐらいなのだ。映画の主人公が、自身が実際に行っている仕事に、どうも「良心的な技術者や科学者の『苦悩』」を感じていないらしい、としても、それは彼が捕まらなかったから、という物語的な理由ではすまされない。そういう現実・歴史を、日本人が抱え込んできているのだから。宮崎氏は、映画を作るための資料読みで、そんな技術者のこと、技術史のことは知っていたはずである。が、にもかかわらず、少なくとも映画物語の表向きでは、二郎は葛藤しない、というか、作者は頑固にもさせない。主人公二郎は、どこか歴史から超然としている。そしてこの感じ、スタンスは、恋人の菜穂子との関係でもそうである。ネットの感想でも、彼は実は残酷ではないか、というのが多いのもうなずける。「美しいところだけ」をみて、その背後には感知しない。が、本当だろうか? 彼は、純粋に、自身の天命に、夢にまい進しているのだろうか? そうではない、ということが、タバコを吸う、というシーンの反復と、その意味を開陳する恋人同士、その時は夫婦になった二人の最後のシーンではっきりするのだ。

この「タバコ」問題も、日本の医学界をも巻き込んで賛否の議論が発生した。一方は、体に毒なシーンが多いといい、一方は、これは一時代の風景にすぎす、余分な意味をもたせるな、みたいなことをいう。が、このタバコを吸うシーンが反復されること自体が、単なる風景ではなく、意味を持たされていることをしめしている。結核で寝込む妻の隣でタバコを吸っていいか、と夫は尋ね、妻は肯定する。むろんそれは、害があっても肯定する、ということだ。そうやって、二郎は菜穂子を捨てて、ではなく、受動的に捨てられて、仕事に成功していくのである。菜穂子が自ら立ち去っていったのが、可憐であるのか、男のもとに押し掛けたと同様強気なものであるのか、明白ではない。明白なのは、夫の二郎のスタンスが、実はイロニックであるということだ。害があると知っているのに、「美しいところ」だけをみて、それへの対処は頭にはまわらない、というよりも、頑固にものぼらせまいとしているからである。これは、「眠れる美女」だけをめでてみせる川端康成に代表されるような日本浪漫派的なイロニーであって、現代ならば、村上春樹であろう。菜穂子とは、左翼時代を描いていた『ノルウェーの森』の「直子」かもしれない。ともに、その時代を、「風景」としてだけ伺えるように描きながら、その実、裏にある現実や歴史をほのめかしている。いわば、無知の知、ソクラテスのイロニーを装うのだ。戦時中の技術者の歴史・現実を素材にしながらも、ロマンが主題であるかのようにみさせているのも、そのイロニックな手法である。単純に、タバコとは戦争にも連なるような科学や技術のことである。しかしそこに、敢えて、快に通じる美しいものしかみようとしない。作者は、むろんその背後にある毒や害を知っているのである。飛行実験が成功したとき、サナトリウムに帰った菜穂子は、抑圧された者のように回帰し、二郎の幻覚として迫る。この突然の強迫観念の生起こそが、彼が意識的に苦悩を生きていたのではなくて、無意識にそれを追いやっていたことを証しているのだ。そしてそのとき、菜穂子は、あなたは生きて、と言ってくる。あなたは、とは、もはや二郎のことではないだろう。より一般的な問題提起として、科学者・技術者のことになるはずである。主人公二郎の意識を超えて、彼の無意識にこそ当時の現実にもまれた科学・技術者の苦悩が露呈してくるのだから。あるいは、もっといって、その苦悩とは、当時の科学技術の進展の最中でそれを使用して生きざるを得ない、我々自身のはずである。そんなわれわれに、菜穂子は言ってくれるのだ、毒や害のことにもまけず、死んだ私のことなどかまわないで、そのまま生きよ、突っ走れ! と。となると、これはもう、吉本隆明ではないか

そう。宮崎駿氏もまた、その世代に特徴づけられる思想的立場を感受し、創作していたのではないか? ならば、「生きよ」とメッセージのあった『もののけ姫』だったか、のその意味は、この氏の最後の作品からみれば、その意味はだいぶ変わってくるはずである。当時のそれは、いじめられて自殺してしまう少年・少女たちへのエールと読まれていたが……。今回、この映画のキャッチコピーは、「生きねば」、というものだそうである。たしかに、われわれは、放射能にまみれながらも、タバコの害を分煙として区画排除しながらも、生きねばならない。が、この生は、単なる現状肯定(平和利用)とどこがちがうのか? 氏は、当初、この『風立ちぬ』の企画を持ち込まれたとき、「子供」むけのものではない、と拒否していたという。しかし逆に、いわばこの現実を受け入れる、妥協する大人の、生活者の生の視点に焦点をあててみれば、ニーチェ的に過剰な生を礼賛・肯定するかにみえた、『もののけ姫』的な「生」は、むしろ自殺をも肯定して現状を超越していかせる志向こそが本位なのだから、実はまやかし的な期待にすぎなかったのではないか、とおもわれてくる。子ども当事者の苦悩をそのままで肯定するのではなく、あくまで大人的に、もっと生きてみればそれが、当時のことなどたいしたことなどないと気付くものなのだ、と諭していくものとしての「生」、レトリックとしての「生」である。むろんその在り方は、イデオロギー的な欺瞞である。それで、子供の、(当時の、当事者の)苦悩が解決されるわけがない。ただ、言葉である。解決する技術ではないのだ。

しかしおそらく、宮崎氏は、それが欺瞞であると気づいているのだ、暗黙に。この映画を、引退作品として提示するまでになったのは、3.11でひきずりだされた自分の在り方に、その欺瞞的な在り方に、図らずも直面してしまったからなのではないか? 原発に反対、憲法改正に反対しても、その言葉を生み出している深みには、それ(技術と戦争)をそのままでむしろまい進させていかせてしまう論理が、思想がある。その自身が陥っている論理の帰結を、夢として美的に肯定提示することですまされるのか? 飛行機の、原子力の、技術の美しさに魅せられるのは、私の趣味でしかないのか? 人間の問題なのか? 主人公二郎は葛藤しなくても、やはり、宮崎氏には葛藤があることを、「引退」という決断が示してはいないか?

*ジブリの『風立ちぬ』の公式HPでは、二郎が葛藤し、ズタズタに引き裂かれている、と宮崎本人は言っているのだが、私はネット検索で多くみられた鑑賞者と同様、一度みたかぎりでは、そう描写されているようにはみえない。ただ作者自身が引き裂かれているということではないのか、と作品からは読めてくるのである。しかし、作者は、スガ氏が指摘したような技術者の思想的反復、現在の転向問題に連なるような、つまりは毒があってもそれを吸う、放射能があってもそれを開発していかなくてはならない、とするその発想自体の問題・論理性には葛藤を覚えていないようである。だから私は、「図らずも」、この問題群に触れて、「図らずも」、引退=転向してしまった、というのである。また、この作品が3.11と通称される東北大震災の影響のもとにあるとするのは、作中当時の、関東大震災での地震が、津波のように波立つ大地、として描写されていることに端的に示されているとおもうが、その物語から逸脱した突然のカットは、圧巻である。

*飛行機がよくて、原発はだめだ、というのは欺瞞ではないか、という見方の真偽性は、次のような指摘を考慮すればだいぶ納得がいかないだろうか? 化石燃料によるCO2の濃度上昇が地球温暖化を招いているというのが真実であるならば、むろん、重油で飛ぶ飛行機のほうが、原発ゴミの放射性物質拡散の危機という「ただちに害はない」時間軸においてではなく、ずっと近い将来の地球破壊・破滅に寄与している第一の技術産業、しかも、地球を保護している大気の間近に害をまき散らしているという事実。しかし誰も、だからといって航空産業を問題視しない。おそらくは、原子力村よりもずっと世俗的な利害が大きいからだろう。CO2による温暖化説がまやかしだという槌田敦氏は、ゆえに、飛行機も、原発にも反対なようである。

私は、ジブリの映画は一通りはみているが、なにか感性的に好きになれないところがある。やはり趣味的に、村上春樹氏の読後感に似ているように思えるのだ。『風立ちぬ』の冒頭、空にすわれし少年が、夏の積乱雲の向こうから、大きな飛行物体が姿をみせてくる幻覚をみる……そのシーンはいいのだが、あの飛行物体の形、そこでの感性がフィットしない。私は、もっとメタリックなものがいいのかもしれない。が、主人公や飛行機が飛んでる感じ、疾走する感触、空中を浮遊する感じはいい。私もよく、そんな夢をみる。その夢での感じが表現できているのがすごい。が、フロイトによれば、それはマスタベーションの感じであり、ナルシストということなんだそうだ。

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